京都 神泉苑

f:id:sakurai7nara:20200915155401j:plain

東寺真言宗 神泉苑

京都市中京区

 

ご祭神

聖観世音菩薩立像

不動明王坐像

弘法大師

快我上人

善女龍王

歳徳神

弁財天

矢剱大明神


延暦13年(794)桓武天皇平安京を造営する際、宮中の付属庭園として造られ、常に清泉が湧き出すことから「神泉苑」と名付けられた。

境域は南北4町東西2町に及び、苑内には大池と中嶋のほか、乾臨閣や釣殿、滝殿も設けられた。歴代の天皇行幸され、宴遊、相撲、賦詩などの行事を行い、弘仁3年(812)嵯峨天皇は日本で初めての桜の花見の詩宴を催した。弘法大師空海は、天長元年(824)日本中の旱天の際、勅命により善女龍王を勧請し祈雨の法を修した。以後、神泉苑は名僧が競って請雨法を行う霊場となった。貞観5年(863)には初めて神泉苑で御霊会が執行され、それが後の祇園祭の発祥となった。当苑の法成就池が「御池通」の由来にもなり、また五位鷺の名称や静御前の祈雨の舞、小野小町の歌など多くの由緒を持つ。現在は国指定の史跡であり東寺真言宗の寺院である。

[案内板より]

 

 

五位鷺謡曲・鷺)》

延喜の帝(醍醐天皇)が、夏の御遊に神泉苑行幸された際、池の洲崎に羽を休める鷺に趣を感じられた。「捕らえて参れ」との宣旨に蔵人(天皇の側近)は狙いより捕ろうとすると、鷺は驚き、羽音を立てて空に舞い上がる。蔵人は、「勅諚(ちょくじょう・帝の御命令)ぞや、勅諚ぞや」と呼びかければ、鷺はたちまち元の所へ帰り、神妙に羽を垂れ地に伏す。帝は大いに感心し蔵人と鷺に五位の位を賜る。五位の鷺はさもうれしげに舞ったという。以降、この鷺は「五位鷺」と呼称されることになる。

 

 

静御前の祈雨》

平安末期、日本中が日照りとなって鴨川や桂川の川水も絶え、人々が苦しんだ時に、慣例によって百人の僧が神泉苑の池で仁王経を読んで雨を祈ったが効験がなかった。次に白拍子神泉苑に百人集めて後白河法皇行幸を仰ぎ、九十九人が舞って雨を祈ったが効験はなかった。あと一人が舞うくらいで効験があるだろうかと言う意見もあったが、静御前が舞うとにわかに雨雲が現れ、三日間大雨が降り続いて国土は安穏になった。法皇は感激されて静御前を「日本一」と称された。源義経(幼名:牛若丸) =は神泉苑で美しい静御前の舞姿(水干に立烏帽子)をみそめられた。(『義経記』)

 

 

小野小町の祈雨》

 平安時代のある年、日照りが続き、詠者として当時第一の歌人である小町が召されて、神泉苑で雨乞いの歌を奉納することが命ぜられた。

 

ことはりや 日の本ならば 照りもせめ

さりとてはまた 天が下とは

(訳)理屈から言ってこの国が(日の本)だから日照りになっても仕方ない。しかし、世界を(天が下)とも言うのだから雨を降らせてくれないだろうか。

 

 

神泉苑のお水取り》

東寺で正月に行われる後七日御修法の中日(11日)未明、東寺から僧が徒歩で神泉苑に参詣し、池中の善女龍王社の閼伽井の水を柄杓で7杯半汲み上げ、東寺へ持ち帰ってお香水として加持したものである。

 

 

*ひとこと*

神泉苑は京都祇園祭の発祥の地です。神泉苑で行われた御霊会が祭りの起源になります。

弘法大師が祈雨の法力を成就させたことから、法成就池にかかる橋を「法成橋」と呼び、渡るときに願い事をひとつだけ願いながら渡り、善女龍王社へ詣ると願いが叶うそうです。(冒頭の写真の赤い橋です)